スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【第14回】故郷への想い

みなさん、こんにちは。第14回担当の土田です。東日本大震災についてゼミ生みんながそれぞれ記事を書いてまいりましたが、今回が最終回になります。いつも女の子のことばかり考えている私ですが、今回は少々まじめな話をしようと思います。

私が生まれ育ったのは福島県双葉町、原発のある町です。海あり山あり、美しい自然に囲まれた大変住みやすい町でした。住民同士の仲も良く、東京では全く考えられないことですが、道ですれ違う人には全員にあいさつをするのが当たり前でした。現在の社交的で温和な自分は、双葉町の環境が作り上げたと言っても過言ではありません。そんな双葉町が、3月11日以降、大きく変わってしましました。

みなさんもご存じの通り、地震や津波の影響で福島の原発は大変な事故に見舞われました。双葉町の住民にも震災の翌日には避難指示が出て、原発からだいぶ離れた町へ一斉に避難することになりました。しかし日々悪化する原発の様子を見て、避難所の住民からは不安と怒りの声が出ていたそうです。私自身も福島にいる家族や友人が心配で食事がのどを通らない日々が数日続きました。その後、双葉町の住民は埼玉県でお世話になることになり、私の家族は姉の住む千葉県に落ち着くことになりました。

私が震災後、初めて双葉町の様子を知ることができたのは、ある動画投稿サイトにアップされた映像がきっかけでした。そこには倒壊した家や陥没した道路など地震の被害を物語る双葉町の様子が痛々しく映し出されていました。そして、目に見えない放射能で汚染され、いつ帰れるかもわからないゴーストタウンと化してしまった双葉町を見て、胸が締め付けられるような思いでした。

GW明けから避難区域の一時帰宅が始まりました。テレビなどでその様子を見られた方も多いと思います。一時帰宅の様子を見てふと思ったのですが、どうして自分の家に帰るだけなのに防護服やマスクをしなければならないのでしょうか。地震が起こるまでは普通に暮らしていたのに、今では政府の許可と放射能への対策がなければ近づくこともできません。5月10日は私が大好きだった曾祖父の命日でした。しかし、仏壇にお線香を供えることもできず、唯一できたのは東京から手を合わせて祈ることだけでした。

みなさんも「失ってからその大切さに気付く」という言葉をよく耳にするかもしれませんが、僕は今まさにその状況です。当たり前のように帰ることができた故郷は、はるか遠い存在になってしまいました。次の言葉は、自分自身とブログを読んでくださったみなさまに宛てたメッセージです。
「現在、自分が関わっている全ての人やモノを大切にし、感謝の気持ちと愛する心を忘れないでほしい。今存在しているものが明日存在しているとは限らないのだから。」

少し暗い感じのブログになってしまいましたが、いつまでも落ち込んでいるわけにはいきません。震災によって大きな被害を受けた日本の復興を担っていくのはこれから社会に出ていく自分たちの世代です。いつか胸を張って愛する双葉町に帰れることを信じて、今の自分にできることを精一杯頑張りたいと思います!
スポンサーサイト

【第13回】携帯依存

こんばんは!第13回担当の岸本です。
更新が遅れてしまい申し訳ありません、、

「東日本大震災」が起きた3月11日14時46分、私はテストセンターでの試験を終え、まさに目黒駅へ向かおうとしていたところでした。最初は違和感も無視して坂を登っていましたが、周りの人たちの反応や信号・看板の異常な揺れに気付き、立ち止りました。とはいえ大したことはないだろうと思い、そのまま駅へ向かってホームで電車を待ちましたが、余震が続き、駅構内も危険と見なされ、結局外へ出ることになりました。改札階へ上がるとテレビの前には人だかりができていて、画面には物凄い津波の映像が流されていました。そこでようやく私は事の重大さに気付いたのです。

父親が目黒の某役所に勤めていることを思い出した私は、まず父親に携帯で電話をかけました。しかし、回線が込み合っていたこともあり、結局すぐには連絡がつきませんでした(19:00過ぎにメールで連絡がつきましたが、たまたまこの日は休暇だったそうです)。
そこからは1時間弱かけて、まず渋谷へ。その間も家族や、埼玉で一人暮らしをしている祖母に携帯から何度も電話・メールをしましたが、繋がることはありませんでした。

渋谷へ着く頃には足も限界だったため(リクルートスーツではあまりにも寒く、就活用のパンプスで歩くのは靴ずれや痛みで限界でした…)、どうにか帰れる方法はないかと、携帯を駆使してルートを検索しました。今考えれば徒歩2時間強かけて歩いて帰るのが最善だったのでしょうが、午前中に受けた面接の(不出来さによる)ショック、寒さと足の痛みで頭が働かなかった私は、バスを3時間ほど待って漸く帰ることが出来たのでした。とはいえ道もかなり込んでいて、なかなか進まず、結局明大前辺りで降りて歩いて帰ったために、家に着くころには22:00を回っていました。
勿論、バスを待つ間もずーっと携帯で連絡を試みましたが、祖母と連絡がついたのは18:00過ぎ、前述したように父親とは19:00過ぎでした(弟や母親とは結局連絡がつきませんでした)。明大前で降りる頃には携帯の充電がギリギリだったので、途中コンビニで携帯用電池式充電器を購入し、家に着くまで父親とメールをしていました。


私は普段から「携帯依存症だ」と親によく言われますが、この時ほど身を持って実感したことはなかったように思います。誰かに連絡をするのも携帯、帰り道を探すのも携帯、ニュースを見るのも携帯、という風に、この日、片時も携帯を手放せませんでした。携帯を持っているにも拘らず、誰とも連絡のつかなかった3時間は本当に心細かったです。
今回、最終的には携帯電話があることで家族と連絡が取れ、帰り道も検索出来て、その便利さを実感しました。しかし、断片的にしか入ってこない情報や、一度連絡のつかない状況に陥ってしまった時には、人が過剰に不安を感じてしまうことに気付かされました(私だけかもしれませんが)。普段何気なく使っている携帯電話ですが、依存し過ぎは禁物だと改めて実感し、今後の携帯電話との付き合い方について考えさせられました。


ということで予想外に長くなってしまって、そしてまとまりのない文章ですみません、、、
次は土田くんです!(^^)!

【第12回】嘘

水野です。第12回担当です。

私は震災で直接被害は受けていませんし、幸いにして親類等で被害を受けた人はほとんどいませんでした。
ですから未だに実感が湧かないところがあります。
震災関係の報道を見てもあまり感情移入できないので、他人からは非情な人間と思われるのかもしれません。

震災から2、3日の間、私は滅多に見ないテレビ(ワンセグですが)を一日中つけっぱなしにしていましたが、かといってテレビの情報に頼るわけでもなく、情報収集はインターネットで行っていました。
その頃テレビ、ネット問わず盛んに話題に上がっていたのが、原発の動向です。
ネット上では「大丈夫だ」「大丈夫じゃない」という煽り合いで盛り上がっていましたが、それはテレビでも同じことで、報道各局がそれぞれ独自に用意した原子力のスペシャリストが、あるチャンネルでは「大丈夫」、また別のチャンネルでは「大丈夫じゃない」と、ネットと同じ水掛け論を展開していました。

さて、何が真実なんでしょうか?

今回の震災では『嘘』がよくありますね。
関東大震災や阪神大震災などでもそういうデマの類はあったようですし、震災にはつきものなんでしょう。
三羽くんが騙されたようなデマのチェーンメールがありますが、今のご時世はチェーンメールよりツイッターで流れたデマの方がよほど拡散しているのでしょう。時代の流れを感じます。
厳密に言えば嘘とは違うかもしれませんが、東電や保安院といった原発の体制側はあまり真実を発表しているとは言い難いですね。結局メルトダウンしていることが判明した一号機や、海外向けのサイトにだけ掲載されている写真など。あんまりひどい情報が一気に溢れるとパニックになるってのはわかりますけども。

悪い嘘がある一方、いい嘘もありました。
@tokusatsuheroというアカウントのツイッターで、かつて特撮ヒーローを務めた俳優が被災地の方々に向けたメッセージを公開しています。
特撮ヒーローは架空の、言わば嘘の存在です。しかし嘘のヒーロー(って書くとなんかものすごく寂しい響きに聞こえますけど)からのメッセージで救われた被災地の方も少なからずいるんじゃないかと思います。
大いなる力には大いなる責任が伴うってことですね。

2ちゃんねるの開設者である西村博之さんの言葉に「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」というものがありますが、“掲示板”の部分は何にでも置き換わるんじゃないかと思います。特にツイッターなんか旬でいいんじゃないですか。
メディアは嘘を簡単に作れるのです。そもそも情報媒体である人間が嘘つきなんですから。だから自分にとって必要、不必要をしっかり判断して、情報の奔流に惑わされないようにしようと思うのです。

次の担当は岸本さんです。

【第11回】マス・メディアの怖さ

第11回担当の仲居です。
パスワードど忘れして更新遅くなっちゃいました・・・高沢さんありがとうTT

正直なところ、震災のことを文字にするにはまだ気持ちの整理がついていません。
誰かととりとめなく話すことなら出来るのですが、ブログというメディアに載る文章をと思うとメディアの威力を思い知った今、何を書いてよくて何を書いてはいけないのか…。
それでも自分が考えたことをということなので、意見がかなり偏っていると承知の上で書きます。

今回の震災で私が強く感じたのは、情報格差でした。

3月11日。
東京の家で1人だった私は本震後、震災報道に切り替わったテレビを見て唖然としました。それは小さい頃にテレビで繰り返し見た阪神淡路大震災と同じくらいの震度が地元の茨城についていたから。火災や倒壊した家屋、傾いた高速道が頭をよぎりました。
真っ先に電話したのは祖母の家。電話が混雑するのはわかっていましたが、携帯すら満足に使えない祖父母が安否確認掲示板なんて使える訳がない。多くの人に便利なメディアでも使いこなせなければ命にもかかわるのだと、少し怖くもなりました。

その後なんとか連絡がつき、親に祖父母の安否をメールで飛ばし、Twitterのタイムラインで地元の友達の安否を確認。地元では電気も水道もいきなり止まったため、今何がどうなっているかもわからないという話でした。少しでも震災全体と茨城県の情報を伝えることで力になれればと思いtwitterとテレビにずっとかじりついていました。
しかし結局、その日はいつまでたっても茨城の様子は報道されませんでした。もしかすると、ただ見逃していただけなのかもしれません。それでも、茨城の情報は震度以外ほとんど伝わってきませんでした。

震災から6時間たったころにはテレビは東北地方を襲った津波と本震時のテレビ局内の映像、東北各局のスタジオ中継、専門家の分析でいっぱいになりました。そのときようやく、なぜ茨城の報道がないのかが分かってきました。
茨城県にはローカル局がありません。FM局もありません。あるのはNHKの放送局1つと茨城放送というAM局だけ。そう、民放だと中継を繋ぐ先がないのです。
当日のことをあまり覚えていないのですが、なぜか民放ばかり見ていた私が茨城の情報を得ることはできるはずもなく。結局、twitterで回ってくる茨城の情報を拡散することしかできませんでした。

震災の3日後、事情があって実家に戻ってからも報道の偏りは続きました。すべてを覚えているわけではありませんが、一時期流れていた「東北大地震」という見出しはすごくショックが大きかったです。ほかにも、最初に計画停電された場所について被害状況(断水続いてたり、液状化してたり)ではなく東京の明るさとの対比を空撮で中継していたり、いくつものヘリが茨城上空を通過して行ったり。メディアの報道に注目すればするほど少しずつショックが積み重なっていきました。

数日たって、ようやく茨城の被害状況が報道されるようになったころ、原子力発電所の問題が浮上。津波報道から原発報道へと話が移る中で、茨城の作物の出荷規制が出されました。
すると今度は、これまでとは比べ物にならないくらいの頻度で茨城県が取り上げられ始めました。JAの会見、政府の会見、都内のスーパー、買い物客へのインタビュー。当時はまだ地元に報道が来ていなかったので、農家の方々の話はほとんど報道されていませんでした。店頭にあるものは制限されていないのに、売れ残っている様子や買い物客の意見をひたすら見るしかない状況。その日からご近所の農家の方から「せっかくだからよかったら食べてやって」とほうれん草をいただいたり、酪農をされている方から「入荷もほとんどないし、出荷もできないから」と6リットルもの生乳をいただいたりということが続きました。祖父母も農業をしていたので、その方々の気持ちを考えると過剰な報道が悔しくてたまりませんでした。

センセーショナルな映像や多くの方がなくなったことを報道することは確かに大切だと思います。放射線のような将来的に健康に関わってくることを報道することももちろん大切です。
ただ、これほどメディアが発達した現在であっても、本当に部分的な内容しか、時には一方的な視点でしか報道されていないのだということに気づきました。
マス・メディアの怖さは「大衆向け」であることなのだと考えるきっかけにもなりました。ひとつの情報で身を守るための術を得る人もいれば、反対にその情報で傷つく人もいるのだということ。SNSなどで簡単に情報を発信できる立場になれる今、このことだけは常に心に留めておかなければならないのだと強く思います。

…やっぱりまとまらなかったですね、長くなってしまいました。すみません。

次は誰だろ?
よろしくお願いします^^

【第10回】大切にすべきこと

皆さま、こんにちは。第10回担当の高沢です★

私は地震があった時、家で1人でした。家にはインコがいるのですが、そいつがバタバタと騒ぎ始めたかと思ったら家がグラグラと…。
あの時の私は家とインコを守ることに全力を尽くしていました。
そのおかげなのか、母親が耐震にうるさかったからなのか、我が家は何一つ壊れることなく無事でした!
と安心して自分の部屋に行ってみると、私の部屋だけは無事ではなかったのですが…

地震の翌日は元々結婚式場のアルバイトが入っていましたが、
「まさかやらないだろう」とおもっているところへ一通のメールが届きました。
文面は
「明日通常通り行いますので出勤して下さい」
とのこと。
「なぬーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!」
と思いましたが、次の日朝8時半から出勤。
行ってみるとその日8件あった結婚式は7件キャンセルや延期になりました。
しかしたった一組
「どうしても今日やりたい!!!」
という新郎新婦の願いをかなえるべく、余震に注意しながらも無事に結婚式・披露宴を終えることができました。
その翌週からもいっぱい入っていた予約は半分近くキャンセルになりました。
当初私はキャンセルする方が普通だと思っていました。
「こんなときに結婚式するなんて不謹慎じゃないのか」
とさえ思いました。
しかしある日の結婚式でのこと。
友人代表のスピーチとしてご新郎様の友人がこのようなことを話しました。
「毎日テレビをつければ気が重くなるような話題ばかりで、実際に被災していなくても心が病んでいく日々でした。だからこそ今日という日をすごく待ち望んでいました。幸せの場所に立ち会えることに感謝しています」

私自身も地震のあった直後はテレビなどをつけていましたが、次第に見るのも嫌になるくらい、気分が落ち込んでいました。
錯綜する情報も、心ない誹謗中傷も、全てが嫌でした。
この友人の方のスピーチを聞いて気づかされたことがあります。
こんなときだからこそ、結婚式をあげることに意味があるのだと。
その場に毎週立ち会える自分がどれだけ幸せなのかを。

テレビで映し出される悲惨な映像全てが今の日本の姿ではなく
私の目の前で行われていることだって間違いなく今の日本の姿だから
私はこの今を大切にしていこうと思います。

らしくもなくまじめな文章になってしまいましたが、これが私が地震を通して感じたことです。メディアとの関わりをきちんと書けているか不安ですが…
お次は多分ですが、我が宮本ゼミのゼミ長!!仲居さんだと思います。
次回もお楽しみに♪
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。