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カントリー・ロード

 三ヶ月のアルバイト試用期間ののち、正社員登用──予定ではそういうことになっているから、二月の頭からこっち、卒業旅行で海外を転々とする華々しいご学友がたを横目に、勤労に精を出している。ある日のポストの中に突っ込まれていた、実家から転送されてきた卒業式の案内を手にして、久々に自分がまだ学生であるという現実を認識した。
 ゲームセンターのUFOキャッチャーで釣り上げた壁掛け時計の針が七時を過ぎたころ、けたたましいアラーム音が六畳よりもほんの少し狭い部屋に鳴り響いて目が覚める。遅刻警報の発信源は、機種変更によって本来の役目を終えたにも関わらずおよそ四年半に亘って連れ添った愛着から目覚まし時計として余生を送ることを持ち主に認められた先代の携帯電話である。屈指の名機と呼ばれて久しいこの機種には、てのひらサイズの箱の中に住む電子の妖精が「七時、十分、です」とご丁寧に現在時刻を読み上げてから、耳慣れたやかましい音を鳴らしてくれる機能がある。彼女のお陰で「早く起きないと遅刻するよ」という台詞を弁当箱に詰め込んで迎えに来る幼馴染などこの四年半の間、そしてこれからも、私には無用の長物であった。
 シャワーを浴び、着替え、コンタクトレンズを装着し、ワックスで整髪し、週に二、三度は髭を剃り、荷物を鞄に詰め込んで、家を出、近所の神社で氏神さまに挨拶をして、駅に着き、電車に乗る。車内ではなるべく読書をするよう心がける。アニメが一話見られる程度の時間は揺られたのち、乗り換え、CMをカットしたアニメが一話見られる程度の時間は揺られたのち、乗り換え、以下略、乗り換え、略、乗り換え、……さすがにそんなには乗り換えない。会社への最寄り駅ではないが徒歩圏内である駅で降り、出社する。
 昼食にありつけるのはだいたいおやつの時間ごろである。不満はない。会社から少し行ったところにある飯屋はご飯に加え納豆までもがおかわり自由──ある人が称して曰く「永久機関」、と。言い得て妙──で、腹十一分目ぐらいは平気でいってしまう。食べる時間が時間だけに、お陰さまで朝と昼をきっちり摂って晩を抜くという極めて健康的な生活を送っている。
 退社時刻は日に日に遅くなりつつある。終電との睨み合いになるのも遠い未来ではあるまい。幼い頃から平日は布団に入る前に父が家にいるところを見たことがなかったから、働くことはそういうことだという刷り込みがある。社畜乙、と笑わば笑え。帰路につくと、朝と同じように読書に耽りながら電車に揺られて、やがてベッドタウンに辿り着く。この街には都内有数の大河が流れている。天気がいい日は、ほんの少し遠回りをして堤防の道を歩いて帰る。堤防に上ると、途端に視界が開けて、対岸の街灯が等間隔に眩しく立ち並び、一気に開けた頭上にはドーム状の夜空に星々が煌めく。あれがデネブアルタイルベガ? あるいはオリオンをなぞる? そんな歌が脳裏をよぎるが、遠く輝く星座の明るさに対して、私は星座について全く明るくない。少なくとも前者は夏の大三角であるから、私が見上げる星空には含まれていないのであろう。理科の授業を真面目に受けておけばよかったと後悔する次第である。
 振り返ると、橋を渡る京王線の車内灯が中空を流れていき、がたんごとんと遠く響く電車の足音が実に心地よい。高揚感と寂寥感がないまぜになったような得体の知れない感情が湧き上がるとともに、もう一つ、思い出される歌があった。
 
カントリー・ロード
この道ずっとゆけば
あの街に続いてる気がする
カントリー・ロード
 
 ここは聖蹟桜ヶ丘。日テレが金曜日に放送すると死人が一人二人では済まされないことで有名な、言わずと知れた名画「耳をすませば」の舞台である。
 
 
 我らが母校、天下に冠たる明治大学、されど白雲なびかぬ和泉校舎にほど近い二つの町で、私は四年の月日を過ごした。
 最初の二年は、〈明大前〉エリア。和泉校舎へは徒歩にして十分ほどの、遠く神奈川や埼玉から通う実家生からは喉から手が出るほど羨ましい立地であった。特に一年のうちは一限の授業も多く、毎朝早起きして遠くからやってくるクラスメイトを尻目に朝八時過ぎまでたっぷり寝させてもらったものである。部屋の広さは21平米ほどであっただろうか。六畳の部屋に広めの収納、狭いキッチンにユニットバス。虫がたまに出る、築20年ほどの木造住宅。極めて平凡な仕様であろう。自活に慣れるには程良い環境であった。
 続く二年は、〈笹塚〉エリア。明大前駅からは二駅の距離だが、徒歩三十分は徒歩圏内と豪語する──別に一時間でも構わない──私にとって、さしたる問題ではなかった。実際の所要時間は二十分ほどで、大抵の人は素直に歩ける距離であろう。三年ともなれば、一限の授業などそもそも時間割に存在していなかった。かなりいい部屋であった。28平米、広い居間に広いキッチン、バストイレ別、ベランダには屋根が突き出て雨が降っても洗濯物を仕舞いもしない。虫は少し出た。利用可能路線は京王線に都営新宿、京王井の頭線、少し距離はあるが東京メトロ千代田線、ほとんど使わなかった小田急線と、交通超至便。これだけ揃って家賃は前の部屋から僅か千円だけ上がったに過ぎないのだから、正直に言おう、手放すのは確かに勿体無かった。
 さて、この二つの部屋で過ごしたそれぞれの二年間は全くもってリンクしない。大学一、二年といえば、彼女はいるわサークルはあるわ授業は忙しいわバイトも忙しいわで、最高に大学生を満喫した果てに自壊した時期と正しく一致する。一方で大学三年以降といえば、彼女はおらんわサークルはやめるわ授業は暇だわバイトはそこそこ忙しいわで、共通項といえば大学に通っていることとバイトを続けていることぐらいしかなかった。
 とはいえ、笹塚エリアでの生活が頽廃しきったものであったかと言えば、全くそんなことはなかった。バイクに乗るようになったり、同人活動を始めたりなどして、おおよそ最初の二年間で満たしていた世間一般の大学生像からはずれようとも、よほど自分の身の丈に合って充足した日々を送ることができた。語学のクラスに馴染めず、サークルも失った私にとって、もはや大学には居場所がなく大人しく便所で飯でも啄もうかと思われた時期もあったが、三年から所属した宮本大人ゼミナールが当初の予想を大きく裏切り、実に居心地のよい場所となった。その辺りの述懐はいまさら私が書き連ねるまでもあるまい。
 ご多分に漏れず、私も独り地獄の業火に飛び込む就活生であった。人生の岐路においては大抵いいように事が運ぶことに定評がある私の豪運は、震災に見舞われて非常に苦しい展開となった2012卒就活戦線においてもいかんなく発揮され、三月末の内々定という結果を呼び込んだ。地元の中小企業であった。仮にN社としておこう。良い会社であった。社長を始め社員の人柄がとても感じよく、様々な経験を積ませて頂いた。そのうえ、諸事情あって地元には笹塚の部屋さえ遥かに凌ぐ良好な住環境があり、生活するには申し分なかった。だから本当に、それでいい、そこがいい、そう思っていた。
 結論を言えば、私はN社の内定を辞退した。もう数カ月後に入社を控えた、一月の半ばであった。先方にとっては青天の霹靂であったに相違ない。既に2013卒の就活生が動き始めた十二月の半ばから、就職活動を再開していた。おおよそ正気の沙汰ではなかった。退路は断たれた。
 私は人生の岐路においては大抵いいように事が運ぶ豪運があるが、豪運を呼び込むためにはまず岐路をブン投げて逼迫した状況に自らを陥れる必要があるという厄介なジンクスを抱えていた。だから私は中学三年生の十一月になって私立中学のエスカレーターを下りて外部の公立高校を受験するなどと言い出したり、高校三年生の十月になって志望校を国公立理系から私大文系に切り替えたりしてきた。小学六年生の初頭に中学受験を決意したのはよほどマシな方である。
 ほどなくして〈転職〉先は見つかった。退路を断ってから一週間も経たぬうちの出来事であった。ここらへんが、豪運たる所以であろう。
 
 
 かくて、〈我が人生〉という名の舞台の東京公演は、今年度始めに掲示されたスケジュールどおりの千秋楽をまだ迎えていないどころか、大好評ロングラン上演が決まってしまった。そうとなれば契約や家賃の都合から、惜しいながらも笹塚の部屋からは離れなければならず、熟慮の末に選ばれた次なる安住の地が、聖蹟桜ヶ丘であった。
 聖蹟桜ヶ丘を住まいに選んだ理由は私が無類の「耳をすませば」ファンであることを始めとして様々にあるが、例をひとつだけ挙げるとすれば、多摩川沿いに立地しているということがある。高校を卒業するまで過ごした実家は、小規模な河川の堤防沿いにあった。休日にはサイクリングロードが整備されているその築堤を上流まで自転車で度々遡ったものである。私は地元での暮らしより東京での生活を遥かに好みこそすれ、それでも故郷の原風景は、和泉校舎の裏手に走りやがて駿河台に流れ着く神田川に沿って歩く時など折りに触れて思い出された。川の規模こそ比べれば違いすぎるが、それでも多摩川の堤防から眺める景色がもつ雰囲気は、故郷の川のそれとよく似ている。
 二年ごとに断絶された私の四年間を貫く存在をひとつ思い出した。携帯電話の形をした、目覚まし時計である。それは大学生活どころか、故郷にいたころの高校時代さえも串刺しにしてぶら下げていた。携帯電話としての役割の面影を残すデータフォルダを遡ると、なんと高校の卒業式に撮影した写真が存在している。画面の中には、学ランに身を包んだ四年前の自分自身が同じ学び舎で過ごした学友と肩を組んで収まっている。流石に老けたように思う。
 高校の卒業が人生におけるひとつの転機であったことは疑いようがない。高校に入学した時から、大学進学の暁には上京することを心に決めていた。青雲の志をもって住み慣れた故郷を、親元を離れ、東京での自由気ままな学生生活をこの四年間謳歌させてもらった。
 
──東京でモラトリアムを満喫したので、地元に戻って親の資産をありがたく頂戴します。
 
 モラトリアムとは非常に耳障りのいい言葉で、自分自身が置かれた身分をそのように称したことが今まで幾度あったことか知れない。しかしこの東京で過ごした四年間を振り仰ぎ、それをモラトリアムという乱雑な言葉にまとめて吐き捨ててしまうことは、四年の歳月を残酷なほど矮小化して、自分自身をひどく惨めに卑しめてしまうような気がした。
 忘れてしまいたい記憶がある。忘れてしまった記憶がある。忘れたくない記憶がある。忘れられない記憶がある。
 挫折を知った。達成を知った。弱さを知った。強さを知った。
 ひとりでは生きられないことを知った。

カントリー・ロード
明日はいつもの僕さ

帰りたい
帰れない
さよなら カントリー・ロード
 
 この街で生きている。これからも、生きていく。




 ということで、副ゼミ長・水野のゼミブログ卒業編、ここまで飛ばさずに読まれた方はどうもお疲れ様でした。
 私小説仕立てでやってみましたが、いざ出来上がってみると、どうでしょう。実に気持ち悪いですね。
 この話はノンフィクションでありフィクションです。一体どこが境目なのか、探してみても時間の無駄です。もっと有意義に時間を使ってください。
 先の記事を書いてくれたゼミのみんなを貶めるつもりは毛頭ありませんが、しかしそろそろ読者の皆さんも展開に飽きてきた頃だと思いましたので、ここらで一丁雰囲気を変えてみるかと発奮した結果がこれでありました。このあとに書く人もう一人しかいないんですけどね。
 というわけで、副ゼミ長は前座も前座。明日はいよいよ真打・ゼミ長の登場をもって、国際日本学部宮本大人ゼミナール第一期生ゼミブログ「みやもーど」は有終の美を飾ります。乞うご期待。
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